第二話でございます。
その夜は急患も特に来ず、快眠して朝五時には目を覚ました。ご老人方の朝は早い。よって俺の朝も早い。目を覚ましてトイレに向かっていると、大体縁側にお爺さんが腰かけている。初めのうちはビックリしたものだが、今では慣れっこだ。
廊下を歩きながら、外の様子を見る。今日は曇っているが、今は雨は降っていないようだ。雲もあまり厚くないから、降らないかもしれない。そしてやっぱり、縁側にお爺さんが腰かけている。
長谷川のお爺ちゃんだ。下の名前は確か源郎太とかそんな格好いい名前だったが、「長谷川のお爺ちゃん」以外の名前で呼ぶと機嫌を悪くするのでそう呼んでいる。
長谷川のお爺ちゃんは今年で九二歳。寝てるんだか起きてるんだか判らないぐらい目も細く、総白髪で、腰もやや曲がり気味だ。けれど、細い身体は杖をつかなくても歩いている。年の割には健康そのもの、ではあるが、少々ボケかかってはきているかもしれない。同じ話をかれこれ何十回聞かされたか判らない。まぁ、そういう話を聞くのも、嫌いではないからいいんだけど。
長谷川のお爺ちゃんは毎朝一番にやって来て、縁側で待っている。雨の日や雪の日なんかも平気で来る。かと思えば、時々、来ない日が有る。そういう時は、何か有ったのかと心配になって、家を訪ねたり電話をかけてみたりするけど、何の事は無い、「今日はテレビが面白くて」とかそんな理由だったりする。朝の五時にどんな面白いテレビを見ているのか、俺には見当もつかない。
まあでも、この人にはよくしてもらっている。余所者の俺に、色々と土地の事を教えてくれる。ありがたい話だ。俺もいそいそと準備をして、朝食は後に回し、診療所を開く。すると長谷川のお爺ちゃんも、嬉しそうに中に入って来るのだ。
「た……た……田村先生、おはようございますじゃ」
「おはようございます、私は橘ですよ」
そうそう、このお爺ちゃんの特徴として、一向に俺の名前を覚えてくれないっていうのが有る。
「おお、そうじゃったそうじゃった。橘先生、どうですかな、体調の方は」
「ええ、私はすこぶる良いですよ。長谷川のお爺ちゃんはどうですか?」
「ワシもすこぶるええですわ」
よく判らない会話だが、いつもこんな風に始まる。今日もお爺ちゃんは元気そうだ。病院に来なくても平気そうだが、ここに来る事が日課になっているようだから、俺もそれに付き合っている。どうやら血圧を測るのが楽しみのようだから、早速測ってみた。いや、毎回の事だが、全く正常だ。素晴らしい健康体。田舎のお年寄りは逞しい。元は大工の棟梁だったというし、流石だ。感心していると、お爺ちゃんはいつもの昔話をする――のだが。
今日は少し違った。
「しかしなんですな、先生。ついにこの季節が来ましたなあ」
「え? ああ、梅雨ですか?」
「ああ、そうじゃの、先生は知りませんな。この村にはしきたりが有っての、村長は魔法使いが決めた御子によって選ばれるんですじゃ。その時期が来たというわけですわ」
ぶっ、と吹き出しそうになった。昨夜のキツネと同じ事を言う。まさかキツネの正体はこの人か? と思ったが、それにしては声が違い過ぎるし、いかにこの人が健康でも、あんなにのたうつ演技をするのはなかなか難しいだろう。
「え、えっと……えっと……何です? 魔法使い?」
素知らぬ顔で尋ねると、長谷川のお爺ちゃんは親切に教えてくれた。キツネと同じ事を。
一体なんなんだ。俺は途方に暮れていた。キツネの言っていた事と、長谷川のお爺ちゃんの言う事はほぼ一致している。加えて次に来た、由良洋介君まで同じ事を言う。
由良君はいわゆるひきこもり、に近い子だ。今年で二三歳。小柄で、顔立ちの素地はいいんだが、なにしろ暗い。目を合わせてくれない。斜め下を見て笑う。人が嫌いらしいのだが、階段から転げ落ちて骨折した時に街の病院に入院して、その後こちらに帰って来た時、経過観察をした。その時、由良君の少々コアなネットゲームの話を聞いてあげたところ、懐いてきた、というか。週に一度ぐらいは顔を見せに来る。
そしてこの子まで同じ事を言うのだ。
「センセ、この村にはねぇ、魔法使いが居るんだよ。笑っちゃうよねぇ、日本なんだからもっとさぁ、雰囲気の有る名前にすればいいのに、呪い師とか、術士とかさぁ。ま、そいつらが村長を決める、御子ってのを選ぶんだけどねぇ……」
本当に、全く同じ内容だ。俺は焦った。焦って、「それはこの村の人は皆知ってるの?」と尋ねると、「そりゃまぁ、土着の住人はねぇ」と笑う。
「でもセンセは余所の人だから、知らないよねぇ。仮に知ってたとしたら、そりゃ逆にセンセが御子に選ばれたって事だもんねぇ。魔法使いから説明ぐらいはされるだろうからさぁ」
「は、はあ、そういうもんなの……」
「でも本当にね、知らないみたいだから良かったよねぇ。余所から来てくれたセンセを、こんな変な風習で犯させたりしちゃあ、かわいそうだもんねぇ」
「は、はは……確かにそれは、風習とはいえ、災難だね」
笑ってごまかすしかない。本当に、意味が判らない。ここに来て一年目の医者に、村をあげてドッキリでもしてるんじゃないか。もういい加減同じ話に知らないふりをし続けるのも面倒だから、ネタばらしをしてほしいものだ。
だのに、ドッキリ大成功~、とはなかなか来ない。もしや、と思わなくもないが、まさかこの、科学の時代に、平成に、有り得ない話だ。大体、もっと夢が有ってしかるべきだ。村長を決めるのに男の尻を狙うなんて、全く夢が無い。嘘であってほしいと切に思う。
とはいえ。魔法使い云々が事実であるにしろ、迷信であるにしろ。万が一にも、この村の住人達が本気で、真剣に、この風習の事を考えているのなら、とてもマズい。尻を狙われる事になる。好みのタイプに迫られるならまだしも、政治家になりたいなんて、大体はそこそこ歳のいった男だろうし。であれば、「抱いてくれ」とあっちから言う事も無いだろうし。考えただけで恐ろしい。村人の顔を少し思い出して、ぶるぶる頭を振った。
村人に襲われるだのなんだの、そんな事は考えないほうがいい。こんなによくしてくれた人達を、そんな風に見るのは。だが、やはり自衛策は必要だ。疑うのはよくないが、無警戒なのも問題が有るだろう。
俺は知らないフリを貫き、いつもと変わらない生活をする事にした。よそ者の俺が変な動きをしていれば、怪しまれる。変わった風習の村なんですねえ、と信じていない顔をして笑っていればいい、それが一番違和感が無いだろう。
そういえば、現村長も御子とやらを抱いたんだろうか。二回当選六年目、確か俺と同い年だったはずだ。若くてイケメンで、しかもやり手なんだなあ、と思ったが、まさかそっちの意味で……と考えると、げんなりしてきた。いかんいかん。考えが下品な方に向かっている。
まぁ村長にも事情は有るだろうし、あまり勝手に想像しても仕方無い。俺は今日の予定を確認して、何事も無かったようにこなそうと思った。ところが、悪い事は重なるものだ。今日は往診の予定が入っていた。
この村で有数のお屋敷、九条家の御子息殿の。
原付に乗って山道を進んでいく。坂道と森と畑と田んぼがやたらに多い道は、人通りも無い。たまに野良猫なんかが車道のど真ん中で昼寝をしていて、慌てて避けても、そのまま寝ているぐらいだ。この村では人間のほうが動物を避けなければならない。空は梅雨らしくどんより曇っていて、俺の内心を判ってくれているみたいだ。
九条家は、元は豪族だか、大地主だか。とにかく、この村でかなり偉い家柄らしい。他の村民に俺が白い目で見られたりしないのは、現村長の一族、佐久間家が村人に手回ししてくれたからだと風の噂に聞いている。要するに、村長とその一族は俺の味方。そして、九条家は俺の味方ではない。余所者として嫌っているらしい。
そんな九条家に往診に行く理由は、ただ一つ。そこの三男坊が、捻挫したからだ。その治療を頼んできたのは、今時珍しい、住み込みの世話係の男。けれど、坊っちゃんの方は、俺の事を好いていないらしい。そういう相手の面倒を見るのはなかなか憂鬱だ。それでも、放ってはおけない。
溜息を吐きつつ原付を走らせていると、道路わきで草を詰んでいる青年に出会った。土木作業員の永尾伸幸さんだ。この村でも少ない部類の、若い男。まだ二五ぐらいだったか。土木作業員とあって、とてもガタイが良いし、いつも日焼けで肌が黒い。それでも爽やかな雰囲気が有るのは、明るい人柄のおかげなのやら。目が合うと、人懐っこそうな笑顔を浮かべた。
「永尾さん、また野草ですか? またお腹を壊しますよ」
そう、彼はいつも変な草を食べて、食辺りを起こして運び込まれてくる。いい加減変な物を食べるのはやめてくれと言うんだが、一向に聞かない。永尾さんはニカッと笑って、「だーいじょうぶ」と言う。
「もうあの草は食べねえって。それより先生、そろそろキノコの季節だぜ。たくさん取れたらおすそ分けしてやるよ」
「勘弁して下さい、キノコは本当に危ないんですからね。医者でもどうにもならないようなのも……」
「アッハッハ、冗談、冗談だって。俺も怖いからキノコはあんまり食べねえからさ!」
あんまり、とはなんだ。買った物だけ食べてもらいたいものだ。
「まったく、変な物は食べちゃいけませんよ」
「おうおう、判った判った! 先生も気を付けなよ、村長選びが始まったからさ!」
「朝からその話を色んな人に聞かされていますよ。なんでも、少し物騒な選び方らしいですね?」
「そうそう、ちょっとな。この村での一大行事とはいえ、大変な事だよ。先生も精々、御子に間違われないように気を付けなよ。毎年何人か、勘違いで色々有るみたいなんだよ」
「勘違いで襲われるんじゃ、たまったものじゃないですね」
「そーそー。今の時代はさ、セクハラだあ、インターネットだぁ、色々有るからさ。龍神様もそこんところ、もうちょっと配慮してくれたらいいんだけどさ。ま、仕方無いよな、龍神様はツイッターとか出来ないだろうしさ、炎上とかも知らないんだろうし」
永尾さんはそう言って大笑いすると、空を見上げて「先生、気を付けなよ、たぶんもうすぐ降るぜ」と言ってくれた。この村の人達は、天気の事をよく当てる。彼らが降ると言うなら、降るんだろう。「わかりました、では」と頭を下げて、さっさと仕事を終わらせるために、坂道を登って行った。
九条家はいわゆるお屋敷だ。敷地を壁で囲まれていて、中には大きな大きな母屋と、離れが有る。母屋には入った事が無い。三男坊が住んでいるのは、離れだ。
「こんにちはー、橘です」
壁の所に有る門でチャイムを鳴らすと、離れの方から男が出て来た。パッと見、ヤの字にも見えるイカつい男だ。ところがこれが、とても腰が低い。この家の住み込み召使い、みたいなものらしいが、文彦という名前である事しか知らない。
「ようこそおいで下さいました。さ、坊っちゃんがお待ちです」
こんな見た目の人に、坊っちゃん、なんて言われると、本当にヤの字の家に聞こえるが、そうでもない。と思う。たぶん。案内されるまま離れに入り、奥の間に行くと、洋室に通された。いつも通り薄暗い部屋は、綺麗に片付いている。たぶん、文彦さんが片付けているんだろう。部屋の中央に布団が敷かれていて、そこに坊っちゃんが横になっている。
「楓坊っちゃん、先生がいらっしゃいましたよ」
楓君、はムスッとした顔で俺を見て、プイと顔を反らした。やれやれ、本当に嫌われたものだ。
「楓君、今日も少し足を見せてもらえるかな」
気にしないフリで、笑顔で話しかけると、楓君は文彦さんの方を見た。「さ、坊っちゃん」と促されると、楓君は渋々布団を脱ぐ。
楓君の事は、あまり知らない。文彦さんも楓君も、話さないからだ。ただ、世間話が好きな村人からは色々聞いている。それを信じるなら、九条の家には色々問題が有って、楓君はそれに巻き込まれた。だから、まだ一六歳の楓君は、外に出なくなってしまった。お金だけなら有るから、ひきこもりでも面倒は見られる。楓君はかわいそうな子だ。村人の話をまとめると、大体そんな風になる。
だからまあ、俺は楓君に対して、それほど悪感情は抱いていない。根気良く付き合っていれば、いつかは心を開いてくれるかもしれない、そうでなくても仕方無い。それぐらいの気持ちで接している。捻挫を見るついでに触診などもしてみるが、痩せてはいるけれど、栄養状態はいいみたいだ。文彦さんがきちんと管理をしているし、楓君もそれを拒んではいないのだろう。
ただ、一六歳にしては少々成長は遅いかもしれない。顔立ちもまだ中性的なところが残ったままだ。美少年、の部類かもしれないが、家の中にこもってるんじゃ仕方無い。もったいない事だな、と少し思った。真っ黒な髪の少し真面目そうな雰囲気、それにそこそこ可愛らしい顔もしているし、ムスッとしていなければ、きっと女性は放っておかないと思うんだけど。
何があったのかは教えてもらえなかったが、捻挫していた左足はかなり回復しているようだ。それでもしっかり治しておかないと、後に響く可能性も有る。だから包帯を巻き直しておいた。白くて細い足に、ぐっと力を入れて包帯を巻きつけると、まだ少し痛むのか、楓君は眉を寄せたけれど、何も言わなかった。
「……よし、っと。もう随分よくなっていますよ。来週には外せると思います」
「それは良かった。ね、坊っちゃん」
「……」
楓君は俺の事を見ないまま、小さく頭を下げた。「坊っちゃん、お礼はきちんと言わないと」と促されて、今度はちゃんと頭を下げて「ありがとうございました」と呟いた。目は合わせてくれなかった。
「もう少しの辛抱だからね、楓君。でも治りかけが一番油断してしまうから、気を付けてね」
笑顔で優しく言っても、楓君は「はい」とそっけなく返事をしただけだ。まあ、仕方無い。感謝の言葉をもらえただけでもマシだ。
楓君の部屋を後にすると、「先生、お茶でもどうぞ」と文彦さんが言う。「いえ、お構いなく」と返事をしたものの、玄関まで行って外を見ると、あいにくの雨だ。「この感じならすぐやむでしょう。その間、くつろいでいてください」と笑顔で言われると、どうにも断る術も無い。ありがたく、客間に通してもらった。
お屋敷とあって上品な洋室だ。とはいえ、出されたのは煎茶と和菓子だった。折角なのでのんびり頂いていると、文彦さんが、ふいに小さな声で切り出した。
「ところで……先生は、村長選びの事はご存知ですか?」
「ああ……今朝からその話ばかりですよ。この村には随分変わった風習が有るんですね、驚きました」
「そうなんです。それで……余所からいらっしゃった先生は、ご存じ無い事も有るでしょうし、何か知りたい事が有れば、ご協力したいと思っているのですが」
ふむ。この申し出はありがたいが、まるで俺が御子だと思っているかのような発言のような気もする。試みに「どうしてですか?」と尋ねてみると、「いえ」と文彦さんは苦笑する。
「田舎の事ですから、恐らく皆さん、知っていて当たり前、のような話し方をするでしょう? 先生も聞くにも聞けないよく判らない事が有ったのではないかと思いまして。私も元々外の人間ですから、こちらに来た時に何も判らず、苦労したんですよ」
ああ、なるほど。単なる親切心か。とは思いつつ、それでも聞き方は考えないといけないだろう。
「えーと……なんでしたっけ。魔法使い、でしたか。彼らは誰なんです? この村の人?」
「……はい。この村の者ですが……彼らはその正体を、基本的には明かしませんので、誰なのかは、俺も……」
「正体が判らないんですか? どうして? 魔法使いなんてすごい力を持っているなら、何も隠さなくても……」
「この村では……その。肉体関係は特別な意味を持ちます。村長を決める時にそうするように、魔法使いも性的関係を持つと、少々特殊な事が起こるようで。魔法使いが他の魔法使いに抱かれると、その魔力を吸収されてしまうらしいのです」
「吸収……ですか」
なんだろう、少々物騒な響きだ。
「強い者はより強く、弱い者はより弱く。それ故、力の弱い魔法使い達は、己の身を守る為に、力の強い魔法使いは、より獲物を探しやすいようにと、正体を隠しているのです。特に、魔法使いの中でも飛び抜けて力が弱いと言われているキツネ様は、今まで殆どその正体が露呈した事は無いほどで。そういうわけで、魔法使いが誰なのか、は、基本的には知る人は居ないんです」
「なるほど……じゃあ、会ったりする事は出来ないんですか? 現れるのを待つしか無い?」
「無いわけではないですが、あまり成功率が高くはありません。村には魔法使いに対応する祠が有りまして、例えばウシやシカ、天狗や、キツネ等、札の貼られた石の祠が有ります。拝むと魔法使いに通じる事も有るとか。詳しい事は判りませんが」
「祠、ですか……」
「ここのお屋敷の近くにも有るんですよ。確か、ウシの祠です。帰り道の道端に、四角い石で出来た祠が有ると思うので、もし気になるようであれば、探してみてください」
「判りました。……しかしここは面白い村ですね。まるでここだけお伽の国、みたいですよ。尤も、少々えげつないルールの国ですけど……」
「そう……ですね。でも皆さん、悪い方では無いので、この季節が終われば、またいつも通りの静かな村に戻ると思いますよ。……また何か有りましたら、遠慮なく行って下さい。坊っちゃんの恩人である先生には、精一杯協力したいので」
「いやいやそんな。仕事として当然の事をしただけで」
「いえ、この村に来たのが先生で本当に良かったと思っていますよ。坊っちゃんも先生がいらっしゃるのを楽しみにしていますし」
「楓君が?」
とてもそんな風には見えないが。そう思っていると、文彦さんは苦笑して言う。
「この村は娯楽も有りませんし、坊っちゃんはその……基本的にお部屋に閉じこもってばかりで。ああしていますが、先生とお話する事をとても楽しみにしていらっしゃるのです。……まあ、年頃ですから、素直にはなれないようですが」
「ふうん……そうですか」
まあ、一六ぐらいといえば、そういう年かも知れないなあと思う。それにあくまで噂で聞いただけだが、楓君はそれなりに苦労しているようだし、近くに居る文彦さんがそう言うならそうなんだろうし。なら、時々顔を見に来てもいいのかな、とも思う。尤も、九条家自体は俺の事を良く思っていないハズだから、あまり出入りしないほうがいいのかもしれないが。
帰り道を走っていると、来る時に永尾さんが居たあたりに、確かに祠のようなものが有って、お供え物がしてある。中に空洞が有って、青い字で「丑」と書いてあった。なるほど、これはたぶん、「青のウシ」さんとかそういう魔法使いの祠なのかもしれない。そういえばこういうのが村の中いくつか有ったような気がする。今度見かけたら、じっくり見てみよう。
診療所に戻った時にはすっかり夕方になっていた。患者も来ないし、のんびりしていると、ふいにノックの音。「はーいどうぞ」と扉を開けると、そこには現村長と、緑色の衣を身に付けた、白い『何か』のお面の男が立っていた。
「あー、えっと、村長さん、これはこれは……」
「どうも、お忙しい所を失礼します。少々お話したい事がございまして」
きっちりスーツを着た、爽やかそうな、少し切れ長の目をしたこの村長は、確か三二歳で俺と同い年だ。身長も高いし脚も長い。容姿も素晴らしいが、経歴も素晴らしい。若くして村長になって、この村に大改革をもたらしている。彼のおかげで、この辺境の村にも人が増え始めているらしい。俺がここに来れたのも、彼が無医村に医者を、という計画を立ち上げたからだ。だからこの村に来れたのは、この人のおかげ、という事になる。
村長は名前を佐久間昴という。彼はご自慢の低音で、柔らかく話しかけてくる。
「先生もこの村の事をお聞きになったかと思います。この村には少々、特殊なしきたりがありまして」
「ああ……色々聞きましたよ。それで……もしかして、こちらのお面の方は……」
『お初にお目にかかります、木賊のタヌキと申します。以後、お見知りおきを」
これはタヌキのお面なのか。なるほど、緑のタヌキだ。木賊色ってのはこんな色なのか……と思いつつ見ていると、村長が微笑んで近寄って来る。
「先生、私はこの村の村長を二回させて頂いております。この村を救うために、あらゆる改革を進めている所ですが、まだまだその途中。私は是非とも、次期も村長を務め、この村をより良くしていきたいのです。先生、是非ご協力を」
「ご、ご協力、といいますと?」
もしや、御子だとバレているのか。困惑していると、タヌキのほうが頭を下げて言う。
『先生はお医者様。故に、秘密を打ち明ける者も有るやもしれません。御子様にはそれと判るよう、御印がございます。診察などでそれらを目にする事がございましたら、なにとぞ、私めか、我が同胞のイヌとクマの魔法使い、あるいは現村長様に御一報いただけたらと……』
要するに、リークしろと言っているのだ。俺が御子だと判っているわけではないらしい。少々安心しながら、少し考えて、「申し訳有りませんが」と首を横に振る。
「個人情報になるような事は、いかなる理由が有っても、お伝えする事は出来ません。村長さんにはここへの誘致でもお世話になっていますし、協力したいのは山々なのですが……」
これなら医者として当然の対応だし、俺も嘘は吐いてない。俺の個人情報にあたるわけだから、話す必要はないし、まして「御子か」と聞かれていないんだから。村長とタヌキは一度目を合わせて、それから村長が「これはこれは」と笑った。
「失敬、先生は本当に、お医者様の鑑ですね。タヌキが不躾な事を申しまして、面目ございません。彼は魔法使いで、少々世間知らずなところがございまして」
『申し訳ございません』
「い、いえいえ、お気になさらず。こちらこそ、あまり力になれませんで……」
「いやいや、私もご挨拶に上がっただけですので。選挙と同じですよ。当選してもらいと思っていただければ、自然と何らかの形で情報は入って来るものでして。先生、今日はありがとうございました」
そう言って村長は手を差し出してきた。「いえこちらこそ」と握手に応じると、タヌキも手を差し出してきた。自然ななりゆきでタヌキにも握手をすると、『ふむ、なるほど』と呟いた。何がなるほど、なんだろうと一瞬考える。
『いえ、もし御子なら、託宣の魔法使いキツネから、魔法使い避けの品を与えられているハズですから。こうして触れると、魔法使いである私は吹っ飛んでしまうところですが……こうして無事という事は、先生はそれをお持ちでは無いのでしょう』
「なるほど、先生は御子ではない、という事ですね。先生、では我々はこれで」
「あ、はぁ……」
俺が御子でないと思って、二人はさっさと出て行ってしまった。しばらく待って、人の気配が無いのを確かめてから、大きな溜息を吐く。
あの村長に狙われる事になるのか……それにタヌキと、仲間がイヌとクマとか言ってたな。注意しないと。
そんな事を考えていると。
『橘様』
突然声がして、俺はびくりと振り返った。すぐ側にキツネが立っている。
「お、驚かせないでくださいよ、キツネさん……」
『失敬。タヌキの気配を感じて来てみましたが、……先生、ご無事でしたか』
「ああ、ええ。特に何もありませんでしたよ。話をして、握手をしたぐらいで……」
『握手? それでタヌキを撃退したのですか?』
「とんでもない。何も起きませんでしたよ。指輪は机の引き出しにしまってありましたし……」
『しまってあった、ですって!?』
キツネは急に声を荒げて、俺に掴みかかってきた。なんだケンカでも売られているのかと思ったが、どうやらビリビリしない事を確認したかったらしい。怒ったように声を荒げている。
『身につけておいてくださいと言ったではありませんか! 万が一タヌキにでもバレたら、それこそ貴方様の貞操は終わったも同然、掘られるがままなのですよ!?』
「ほ、掘られ……いや、その、悪かったです、正直その、全く信じてなくて……でも逆に、身につけて無かったから、怪しまれずに済んだところもありますし、……ね?」
そうなだめると、キツネは何か言いたげだったが、離れてくれる。
『そ、それはそうですが。私には他の魔法使いと戦い手段が無いのです、貴方様をお守りする事は出来ません。だから……身につけていてもらわないと、困ります』
「そうは言っても、触っただけでビリビリしてしまうなら、『私が御子です』と言ってるのと変わりませんよ。意図せず魔法使いの方と触れ合ったりしたら、それこそそこでバレて終わりでしょう」
『……です……ね……。それでは、……これに入れて持ち歩いて下さい』
キツネはそう言って、懐からお守りを取り出した。赤い色の小さなソレの中に、指輪を入れろという。
『直接触れるわけではないので、接触しただけでは魔力は発動しません。使う時には、袋から出せば使えます』
「なるほど、判りました」
お守り袋を受け取って開くと、中に何かが入っていた。が、とりあえずそれは無視して、指輪を放りこむ。お守りなら持っていても不自然ではないし、中を見ると効力が無くなるなんて話も有るぐらいだから、他人が中を見たがる事も無いだろう。
『それで、ですね……その。一か月の間、時々ですが、こちらにお邪魔してもよろしいでしょうか』
「え? 何でです?」
『身辺警護の為にです』
妙な話だ。さっき自分には力が無いと言っていたし、ましてルールを聞く限り、キツネが俺を守らなくてはいけない理由も無い。怪訝な顔をしていると、キツネは静かに言う。
『私は託宣の魔法使いですから、出来るならこの村長選びの顛末を、責任持って見届けたいのです』
「じゃあ、貴方は私が仮に誰かに襲われていても、黙って見ている、と? それにしては変じゃないですか、身を守れと言ったり」
『……申し訳ありませんが、私にはそうとしか言えません。でも、どの道私には力がありませんから、仮に貴方のケツにナニをブチ込まれていたとしても、どうしようもないでしょうね』
相変わらず丁寧なんだか下品なんだか判らない人だ。まあ、要するに、頼る事は出来ないんだろう。
「でも、いつもキツネさんがここに居たら、私が御子だとバレるのでは?」
『ご心配なく。私はキツネ、隠遁と変化の術だけは、魔法使いの中でも最も強い部類でございますから、決してバレたりは致しません。それに、私にも私の生活がございますから、ずっと居る事も出来ませんし』
「ああ、そうですよね。普段は普通の村人として生活しているんですよね」
まあ、それならいいか、と了承する。別段悪い奴でも無さそう、というか。何処か抜けているところがある感じがするから、危険には思えない。それに、今の状況では唯一信用出来る味方がキツネだ。なら別に、側に居ても問題は無いだろう。
「でも夜中まで居るのは勘弁して下さいね、私にもプライベートが有りますから。いや、別にやましい意味では無く」
そう冗談めかして言うと、キツネは『あ、いや、はい、もちろん』と何故だか少し焦って頷いた。そしてそのまま『では今日はこれにて』と言い捨てて、逃げるように出て行った。
変な人だなあ。そう思いつつ、ふと、赤い衣の足元に、白いものが見えたのを思い出す。着ているのが鮮やかな赤い衣だから、目立った。はて、あれは何だろう。少し考えつつ、何気なくお守りの袋を開いてみる。中には指輪と、神社の名前と思わしき物が書かれた紙切れが入っていた。
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